そのとき突き上げるように揺れにたたき起こされました。
大きな揺れが一通り止んだあとに起きると、家の中は本や書類はもとより多くのモノが散乱し、通り道さえなくなりました。
後に阪神・淡路大震災と呼ばれる地震が起きたときです。
西南公民館は、避難所にかわりました。
当社社屋に面する国道171号線は、それからまもなく大事態に陥ります。
道路に自動車が集まりすぎて交通が滞ってしまったのが理由です。
渋滞はその後1か月ほど続いたでしょうか。
いまの報道を見聞すると地震の被害は、神戸を中心にした阪神地域で起きたか出来事に思うかもしれません。
しかしこの箕面市でも家屋の倒壊が8件あり、死者さえ出たのです。
箕面市の震度は4であったと公式記録には載っていますが、体感はそれよりずっと大きな印象でした。
自宅に被害が及ばなかった社員は誰も居ませんでした。
社員の中には被災地に親族が住んでいたため、その救出に向かう者もいました。
多くの社員が出勤さえできなかったのですが、それでも比較的近い所に住まう十名ほどは勤務につきました。たとえ午後になろうともです。
当時の事務所は。普段なら業務が始まると、多くの電話が社外からかかるため喧騒に変わるのですが、その日は無闇に静かでした。
電話が鳴らなかったのです。
電話回線が混雑したので固定電話は使い物にならなかず、社外からの電話が繋がらなかったためです。
当時、当社で使っていた携帯電話の回線数は、ただの一つ。その日からしばらくの期間は、一つの携帯電話だけで外部ととれる手段でした。
仕事にならない日々は1か月ほど続いたような気がします。
いまの光景からは想像しづらいかと思うでしょうが、その困難を乗り越え当社は今日に至ります。
社員のうちいまや大多数は、その日より後に入社した人です。全社員のおよそ2割は生まれてさえいません。
それでも当時に在籍していた社員・役員のうち、いまも9名が在籍していることに、僕は感謝しています。
測ることができない困難は、今後いくつも訪れると思いますが、あの困難を思い起こせば、乗り越えられるはずだと考えるようにしています。